宮沢賢治『雨ニモマケズ』ひらがな全文・意味考察|デクノボーで良い理由

雨ニモマケズ』は、自然の中で生きて行く人の描写が心を打つ、宮沢賢治の代表的な詩です。
冒頭の「アメニモマケズカゼニモマケズ…」は詩をあまり知らない人でも、どこかで聞いたことがあるフレーズでしょう。

この作品は、簡単な言葉で書かれている様に見えながら、意味がとりにくい部分があります。
たとえば、文中の「デクノボー」。なぜデクノボーになりたいのか、よくわからない気がしませんか

このブログでは作品の内容と、宮沢賢治の人物像から『雨ニモマケズ』を解説・考察していきます。

長文です!もし一部だけ知りたい方は目次からどうぞ

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この記事で考えたいこと
  • 『雨ニモマケズ』全文と、それをひらがな漢字表記にしたもの
  • 作品の内容と、宮沢賢治の人物像から読んだ『雨ニモマケズ』の考察・解説
  • なぜ、「デクノボー」になりたいのかを特に考察
タップできる目次

『雨ニモマケズ』全文紹介

雨と風

『雨ニモマケズ』全文(カタカナ原文)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテイカラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

『雨ニモマケズ』現代風表記(ひらがな+漢字 ふりがな付)

カタカナで読みにくい。なんでカタカナなの?

読みやすいように「ひらがな漢字多めの現代風表記」の『雨ニモマケズ』を載せておきます。

今では外来語中心に使われるカタカナですが、戦前の日本では子供たちはカタカナ→ひらがなという順序で文字を習っていました。
この作品がカタカナなのは、賢治がこの詩を書いたのは1931年(昭和6年)と戦前なので、カタカナに対して今より抵抗がなかった時代だったからかもしれません。

あめにもけず
かぜにもけず
ゆきにもなつあつさにもけぬ
丈夫じょうぶからだ
よくはなく
けっしていからず
いつもしずかにわらっている
にち玄米げんまいごう
味噌みそすこしの野菜やさい
あらゆることを
自分じぶん勘定かんじょうれずに
よく見聞みききしわかり
そしてわすれず
野原のはらまつはやしのかげの
ちいさなかやぶきの小屋こやにいて
ひがし病気びょうきどもあれば
って看病かんびょうしてやり
西にしつかれたははあれば
ってそのいねたば
みなみにそうなひとあれば
ってこわがらなくてもいいと
きた喧嘩けんか訴訟そしょうがあれば
つまらないからやめろと
日照ひでりのときなみだをながし
さむさのなつはオロオロある
みんなにデクノボーとばれ
ほめられもせず
にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

※「日照り」は原文では「ヒドリ」です。賢治が「ヒデリ」を「ヒドリ」と誤表記したと言われています。
どちらが正しいかという論争がありますが(「ヒドリ論争」)、「日照り」と「寒さの夏」が対称の表現になっていると思うので、この記事では「日照り」として意味を取りました。

1日に玄米4合ってどれくらい?

「1日に玄米4合」ってどれくらいの量なの?

お米は1合でお茶碗約2杯(2.2杯)です。
なので4合で、お茶碗9杯にちょっと足りないくらいになります。

1日に1人でそんなに食べるの!

今はおかずもたくさん食べますが、当時の食事は主食が中心。
この量は「当時の平均的な量」です

『日本食物史』では明治から大正時代の全国の穀物消費量について、こう書いてあります。

大正時代の全国穀物消費量を算出した森本厚吉によれば、明治四十年(1908)~大正4年(1915)の平均で見ると、一人一日当たりの飯米用穀物は、約三合五勺、その他の穀類を含めて四合であるとし、年々米の比率が上がっていると述べている。

「日本食物史」江原絢子・石川尚子・東四柳祥子著(2009年 吉川弘文館 P254-255) 

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『雨ニモマケズ』基本情報

作 者宮沢賢治
制作年月日 1931年(昭和6年)11月3日 ※手帳の日付の書き込みより
ページ数 4ページ
(AmazonのKindle青空文庫版より)
テーマ日々の修練行動と実践の大切さ自然や生活の厳しさ

【『雨ニモマケズ』発表までの経緯】

『雨ニモマケズ』は、1931年(昭和6年)秋、宮沢賢治が病に倒れ花巻の実家で闘病中だった際に、使用していた黒い手帳に書かれたものです。賢治はその後、1933年(昭和8年)に亡くなっています。
この手帳は没後の1934年に遺品の革トランクから発見されました。
そして、この作品は1934年9月に「遺作(最後のノートから)」と題して、岩手日報に初めて掲載されました。
手帳にはタイトルはありません。『雨ニモマケズ』は便宜上付けられたタイトルです。

「雨ニモマケズ」が書かれた手帳の写真(パブリックドメイン)
宮沢賢治の手帳に記された『雨ニモマケズ』(Wikipedia 「雨ニモマケズ」の項目より引用 パブリックドメイン)

『雨ニモマケズ』解説・解釈・考察

今回は『雨ニモマケズ』を

  • 作品の内容
  • 宮沢賢治の人物像

の両方から考察してみました。そして、

『雨ニモマケズ』は、知識や修練を大切にしつつも、自然の脅威や生活の難しさの中で、翻弄されてしまう人間の姿を現しています。けれどその中でも「実際に行動すること」を柱にして、生きていこうという思いが表現された作品

と考えました。

作品の内容から見る『雨ニモマケズ』考察

ここからは考察の理由です。

大部分が1つの言葉に掛かる作品

まずこの作品の作りについて考えました。
この作品のほとんどの部分は、最終部のある言葉に掛かっています。

ほとんどの部分が「そういうもの」に集約される

最初の

「雨ニモマケズ」

から終わり3行目の

「クニモサレズ」

の部分で書かれているのは、1人の人物の行動の描写です。
そのすべては、最後の2行目にある「サウイフモノ(そういうもの)」という単語に掛かります。
「これらの前の行に書かれているすべてのもの=そういうもの」に、「わたしはなりたい」という作品です。

まだなっていない「サウイフモノ(そういうもの)」

この作品で語られている理想の人物はとても立派そうです。

自然の中で実直に暮らし、けっして怒らずに人の話をよく聞き、人助けをしています。
読んでいて「すごいな」と思いながら、「自分とはまるで違う」とすこし遠く感じてしまいます。

けれどこの作品は最後の2行で転換します。

なりたい、という願望

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

「私はなりたい」のですから、この作品の私は、まだ「そういうもの」になっていません。
この人物も、その前で描かれる自分で納得のいくような立派な人には、まだなれていません。

「ナリタイ」が示す憧れ

なりたい、と、なろうの違いを考える少女

さらに言えば、「なりたいけれどもなれるのか」とさえ考えていると思います。

ここで、「なりたい」と「なろう」という近い意味の言葉2つを使って考えます。
この文章が「そういうものに私はなりたい」ではなく、「そういうものに私はなろう」だとどうなるでしょう。

ちょっと離れますが、例えば、有名な「小説家になろう」というサイトがあります。
このサイト名は「ここに投稿さえすれば小説家と名乗れます」という意味を表していると思います。

これがもし、「小説家になりたい」というサイト名だとしたら?
「投稿さえすれば小説家」というよりも、「ここに投稿して、さらに編集者などの眼にとまったら小説家にやっとなれる」という気がしないでしょうか。

「なりたい」は「なろう」よりも実現から離れている

つまり、「なりたい」のほうが「なろう」よりも、実現から一歩離れています。
なりたい意志はある。けれど、本当になるためには少し遠い場所にいる、という状態です。

「そういうものに私はなりたい」は「憧れ」という気持ちが近いかもしれません。

「雨ニモマケズ」は、すでに立派な人物が語っているのではなく、最後の2行で「本当にできるのかわからない不安定な気持ちを持ちながらも、何かに向かって憧れ続けて、進みたいと思う人間の姿」が表現されています。

・『雨ニモマケズ』は、最後の2行で「そういうもの」になりたいけれどまだなっていない人が書いたという事が明かされる作品
・「なりたい」という言葉からは、なりたい意志はあるけれど、本当になるためには少し遠い場所にいることが感じられる

前半と後半で見られる人物像の変化

次にこの人の持つ理想について詳しく読み込んでいきます。
この人物像を考えていくとき、引っかかる部分があります。

作品の前半と後半で理想の人物像が変化している?

作品の前半では「決シテいかラズ イツモシヅカニワラッテヰル」と、感情の動きが表に出ない人物を理想としています。
けれど最後近くでは「ナミダヲナガシ」「オロオロアルキ」と感情が出ているように見えます。

さらに前半の「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という部分は知識を感じさせます。
けれど最後近くの「ミンナニデクノボートヨバレ」は、知識が役に立っていないと思いませんか。

つまり1人の人物が、作品の前半と後半では違う面を見せています。

人の手に負えないものへの態度

人物像が変化しているように見えるのは、後半ほど難易度が高くなっているから

その理由を、私はこの作品の状況が

平常を語る前半から、実践の話になる中盤、さらに人にはどうすることもできない後半

に変わっていっているからだと思います。

「雨ニモマケズ」から「ソシテワスレズ」までは、「平常時」です。
通常の状態だったら、この人は自己コントロールができて知識が深く、本人の鍛錬により自然にも負けません。

「東ニ病気ノコドモアレバ」からは、実践編だと思います。
そして、この実践編の途中から雲行きが怪しくなります。
病気の子どもを看病し、疲れた母の稲の束を代わりに背負うことは、相手にとって役立つことです。
けれど、病気の人に「怖がらなくてもいい」と言うことや、現実の訴訟に対して「つまらないからやめろ」と言うことは、役に立っているでしょうか?

日照りで枯れた草と、冷夏のイメージ

さらに作品は、日照りや冷夏など自然の脅威が通常より大きい場合には、泣いたりオロオロ歩くしかできない人の姿へと続きます

冒頭の「夏ノ暑サ」と、終盤近くの「サムサノナツ」の2か所は比較になっています。
人は通常の「夏ノ暑サ」には負けませんが、脅威となる「サムサノナツ」には何もすることができません。

そんな様子が、役立たずの「木偶の坊」デクノボーです。

この人の理想が前半と後半でずれているように見えるのは、前半と違い後半では人の手に余る過酷さや複雑さに対抗しようとしていることが原因です。

・前半で感情を出さないことを理想としているのに後半でオロオロしたり、前半で知的なのに後半でデクノボーと呼ばれたりするのは、後半に行くほど「人の手に余る過酷さや複雑さ」が相手になっているから

デクノボーと呼ばれてもいい、の意味

そしてこの人は本文後半の「人間にはどうしようもできない」場合だからこそ、「デクノボーとよばれたい(よばれてもいい)」と言っていると思います。

普通は「デクノボー」と人から呼ばれたいはずはありません。
文章としての使い方も、オロオロという様子と「ほめられもけなされもしない=何の効果も無い」というマイナスの言葉にこここの「デクノボー」は挟まれていることから、一般的な意味の通り「役に立たない」になると思います。
それなのに、「デクノボーとよばれたい」と言っています。

実はデクノボーと呼ばれない方法はあります。
それは、何もできない姿を人に見せないことです。

自分は無関係という態度の人

もし自分がどうすることもできないことに出会ったら、自分には関係ないこととして一切なにも手を出さない、その場に行ったりしない、何の行動もしなければいいのです。
そのようにしておけば、オロオロする姿を人に見せずに済みます。
その場にいない、無関係ということで自分と結び付けられることはないでしょう。

けれど、作中の「わたし」はそういうタイプではありませんでした。

宮沢賢治の実弟・清六さんの孫、宮沢和樹さんが書いた【わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」】という本があります。
その中の「雨ニモマケズ」に本文中の「行ッテ」についての解説が載っています。

「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ」とあり、西についても「……行ッテ」となって、「行ッテ」「行ッテ」と続く。
 賢治さんはこの「行く」ということをたいせつにしていて、それをいつも口にしていたそうです。
「行って」というのは自分が直接そこに行って行動すること、動くこと、実践すること。それが、だいじなのだと。

わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」 (宮沢 和樹 著 ソレイユ出版)より 太字はブログ筆者
清六さんから聞いた「賢治さん」のエピソード、みずからの「宮沢賢治」体験、各地で行われる講演会や「ファミリー音楽会」での様子。それらの中から、家族にしか見えなかった、ありのままの「賢治さん」像が浮かび上がってきます。(著:宮沢 和樹, イラスト:泉 雅史)※amazonの紹介より抜粋

※22/11/3現在 無料体験ありのKindle Unlimited対象作品になっています。
 Kindle Unlimitedの申し込みはこちら

また、そのような賢治の姿は妹のクニさんも証言しています。

兄さんはすぐ、まっさきにその倒れた生徒のところへ駆けつけました。兄さんというひとは、何か変った、こまったことが起きますと、ひとより先に駆けつけて、助けてやろうというタチです

証言 宮澤賢治先生 -イーハトーブ農学校の1580日-(佐藤 成 著 農文協)P252 より

賢治は農学校で5年間ほど教職についていましたが、その授業中のエピソードとしてこんなのもあります。

突然、町の方から半鐘の音が聞こえて来た。二階の窓から見ると鍛冶町方面に黒い煙が上がっている。「火事だ、みんなで消そう」というが早いかもう賢治は教室から飛び出して階段をかけおりると外へ走り出している。

その火事は燃え広がらずに鎮火したのですが、それを見届けた賢治はまた真っ先に授業のために駆けもどります。
ところが歩くのは得意だけど走ることについてはまったく不得意だった賢治は、

到着したとたんばったりと倒れてしまった。驚いたのは居あわせた先生や生徒たちで、あわてて介抱。

証言 宮澤賢治先生 -イーハトーブ農学校の1580日-(佐藤 成 著 農文協)P211 より
必死に走る人

宮沢賢治は実践が大事と言っていました。
「行ッテ」何かをすることが大事と言っていました。

他人のために、何もできないとわかりながらその場に行くことは勇気がいります。
自分の知識がまったく役にたたない怖さその姿を人に見られてしまうつらさと向き合うことになるからです。

つまりこの人が「デクノボーと言われたい」と言っているのは、

実際の出来事では、自分にどうしようもできないことがもちろんたくさんある。
そうであっても、自分はデクノボーと言われないためにそれを避けるのではなく、その場でできるだけ(できなくても)相手に何かしたい、その結果なにもできずデクノボーと言われてしまってもかまわない

という

とにかく何か行動したいという気持ち

を大切にしているからだと思います。

・デクノボーと言われるのは、日照りや冷夏などの人には難しい問題に対しても「行ッテ」なにかをしようとしているから。
見ないふりをしてその場に行かないのではなく、とにかく相手のためになにかをしようとした結果。だからデクノボーと言われてもいい。

作品からの考察まとめ 

ここまで、作品の内容から「雨ニモマケズ」を読んできました。
一旦まとめてみます。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、「本当にできるのかわからない不安定な気持ちを持ちながらも、何かに向かって憧れ続けて、進みたいと思う人間の姿」を描いています。
自然の脅威・複雑な現実など実際には人の手に余るものは多いです。
たとえ何もできず役に立たないとしても、他の人のために何かをする、行動する、動く、実践する、そういったことを大切にしたいとする作品だと思います。

宮沢賢治の人物像から読む『雨ニモマケズ』解説

次に、宮沢賢治の実際の人物像・出来事から捕捉の解説をしていきます。

羅須地人協会時代と肥料用石灰の営業マン時代

宮沢賢治は1926年(大正15年)に花巻農学校の教師を退職したあと、農民たちに農業技術や農業芸術論を教える目的で「羅須地人協会らすちじんきょうかい」という会を設立しています。
この会自体は社会主義との関係を疑われたことで翌年には下火になりますが、設立頃に始めた「肥料設計」(医師が処方箋を書くように田畑の肥料を計算する)を、賢治は無料で骨身を惜しまず行っていました。

無料どころか、賢治の詩集『春と修羅 第三集』の「一〇八八 もうはたらくな」に

どんな手段を用ゐても
弁償すると答へてあるけ

『春と修羅 第三集』「一〇八八 もうはたらくな」より抜粋

とあるように、不作で損害が出た場合は補償も考えていたようです。

※青空文庫『春と修羅 第三集』へ
(リンク先で「一〇八八」を探してください)

基本的に賢治は尊敬されていたようですが、このような損害が出た場では「デクノボー」などと言われることもあったでしょう。

そして1931年(昭和6年)からは、肥料用石灰の営業マンとして働いています。
石灰宣伝とこの会社のために無理をした賢治は、出張先の東京で高熱を出して倒れ、帰郷して闘病生活に入ります。
それが1931年の9月のことで、「雨ニモマケズ」が書かれたのはそれから2か月後の11月です。

病に倒れるまえの賢治は、自分の知識を使って農村のために文字通り東奔西走していたと言えます。
この経験が「雨ニモマケズ」の

  • 通常は「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」だけれど 自然の脅威にはオロオロする姿
  • 東西南北へ実際に「行く」様子

に現れていると思います。

「雨ニモマケズ」の
・通常は知識を使い自然に対抗する姿
・自然が驚異となった場合にはオロオロする様子
・東奔西走し行動する様子
は、羅須地人協会時代と肥料用石灰の営業マン時代の宮沢賢治の姿が重なる

法華経とのかかわり

「雨ニモマケズ手帳」の「雨ニモマケズ」に続くページのイメージ

最後に宗教の面から「雨ニモマケズ」を見て行きます。
「雨ニモマケズ」は賢治の持ち歩いていた手帳から死後発掘されたものですが、その隣のページには次のことが書かれていました。

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」という法華経のお題目を中心に、法華経の仏や菩薩のお名前が書かれたページです。

宮沢賢治は亡くなる時に、法華経1000部を出版し知り合いに配ることを遺言としたほどの、法華経の熱心な信者でした。

東西南北に行くこの部分は、仏教のエピソードとも重なります。

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

この部分は、お釈迦様が出家を決意する「四門出遊しもんしゅつゆう」のイメージにもなっています。
「四門出遊」はお釈迦様がまだある国の太子だった時、城の東で老人・南で病人・西でお葬式・北で修行者と出会うことで自らの出家を決意した、というエピソードです。

また、法華経では菩薩行ぼさつぎょうの実践を大事にしています。
菩薩行の実践とは、仏の教えを聞いただけでは十分ではなく、人を導き救うという慈悲の行いを実際にしなければ、悟りを得ることはできないという考え方です。
これは、先ほどのまとめにした「他の人のために何かをする、行動する、動く、実践する」と重なってくると思います。

法華経についてはこの本を参考にしました。

▲「まんが法華三部経

Kindle Unlimited でも読むことができます(22/11/04現在)

・『雨ニモマケズ』には法華経の影響も感じられる
・作品から読み取った「実践の大切さ」は、宮沢賢治の信じる法華経の考え方と一致する

科学者としての宮沢賢治

『雨ニモマケズ』のデクノボーを、先ほど「見ないふりをしてその場に行かないのではなく、とにかく相手のためになにかをしようとして何も出来ない様子」とまとめました。

宮沢賢治は、

私は詩人としては自信がありませんけれども、一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います。

草野心平宛の書簡 より

と語っているように、詩人や宗教家でもあると同時に科学者です。

人間の限界を認める感覚は、宗教家よりも科学者としての面が強いように思います。
科学者として人間と自然を並べて見た場合、人間にはどうすることもできないものがあると感じる事も多かったでしょう。
なにかをしてあげたいと理想に燃える宗教家と、何もできないという人間の範疇を知っている科学者。
その間に生まれているのが、「走るけれどもオロオロと何もできない」デクノボーのようにも思います。

・「走りながらもオロオロと何もできない」デクノボーは、理想に燃える宗教家と、人間のできることの限界を知っている科学者という、賢治の二面性の間に生まれたものに思える。

まとめ 作品なのか戒めなのか

今回は、作品内容と宮沢賢治の人物像から、『雨ニモマケズ』を読んでいきました。

最後にまとめると

『雨ニモマケズ』は、知識や修練を大切にしつつも、自然の脅威や生活の難しさの中で、翻弄されてしまう人間の姿を現しています。けれどその中でも「実際に行動すること」を柱として、これからも生きていきたいという思いが表現された作品

と言えると思います。

ところでこれだけ広まっている「雨ニモマケズ」ですが、誰かに見せることを考えた作品だったのかということがよく問題にされます。

作品か個人的なものか

手帳からタイトルなしで発見されたということから、『雨ニモマケズ』は誰かに見せる作品というよりも、宮沢賢治が自分自身を見直すために書いた戒めのようなものでしょう。
理想の人物に自分が近づけているかを日々見直し、続くページでお題目を唱え、法華経での悟りに近づくために書いた自分のための文章です。

ただ、書いた人の意図とは違うことを、読んだ人が受け止めることはあります。

最後の2行「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」という部分は、賢治にとっては単純に「そうなりたい」という願いですが、本人以外が読むとそこには「不安定な気持ちを持ちながらも、何かに向かって憧れ続けて、進みたいと思う人間の姿」を感じることができます。
そんな他人の姿を見ることで「自分も何かになりたい」と気持ちが動かされたりします。

『雨ニモマケズ』は賢治にとっては作品ではないかもしれませんが、それを読む人には作品になっていると思います。
自分のためだけにかいた文章が、他人の眼に止まり、心を動かしている。
今ではたくさんの人に広まっている『雨ニモマケズ』はそのような作品です。

教科書で読んだ詩について思い出せる本

『雨ニモマケズ』も教科書に載っている詩ですが、「昔こんな言葉を聞いた気がする…」と一部が気になっている作品はありませんか。

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

『二十億光年の孤独』谷川俊太郎 より抜粋

教科書で出会った名詩100(新潮文庫)石原千秋 監修

あの言葉はここに在ったんだ、と思い出すことができます

この本は、1950年代から2010年代の各世代が触れたことのある名詩を精選し、一冊にした新潮文庫百年記念アンソロジーです。
きいたはずなのに忘れてしまった言葉がここにあります。
旅先での読書などにもオススメです。

ここまで読んでいただきありがとうございました

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