宮沢賢治『注文の多い料理店』あらすじ解説考察|どうして犬が生き返る?

宮沢賢治の『注文の多い料理店』は教科書にも取り上げられている宮沢賢治の代表作です。
国語だけでなく、「The Restaurant with Many Orders」として、中学生の英語の教科書にも掲載されました。
紳士2人が扉を開けて進むとその先にあるのは…? 怖さとブラックユーモア、少しミステリー要素のある童話です。

読書であせるうさぎ

けれど、この物語には最後まで読んでもよくわからない謎があります。

犬…死んでしまいました、って書かれてなかったっけ?

途中で死んでしまったはずの犬が、紳士2人を助けます。

この記事は近代文学を専攻した著者が、作品を読み込み時代背景を調べることで、「注文の多い料理店」のテーマについて考えました。
その中で「なぜ犬が生き返ったのか」についても、考察します。

ガチ考察なので長いですがよろしくお願いします

扉の言葉のほかにも、ダブルミーニング(1つの言葉が2つの意味にとれる文章のこと)が隠されていると思ってます。

タップできる目次

宮沢賢治『注文の多い料理店』 作品の基本情報

『注文の多い料理店』概要

作 者宮沢賢治
制作年月日 1921年(大正10年)11月10日 ※初版本の目次の制作日付より
発表年1924年(大正13年)
初出書籍名「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」盛岡市杜陵出版部・東京光原社
テーマ 命の大切さ・必要以上の食や狩りへの戒め・地方と都市の格差

注文の多い料理店の主な登場人物

  • 2人の紳士……ぴかぴかの鉄砲を持ち、山奥に狩りをしにやってきた。太っている。
  • 山猫……西洋料理店「山猫軒」のオーナー。紳士2人を山猫軒に誘い込む。
  • 猟師……2人の紳士の案内人。団子を持っている。
神田神保町「文房堂」山猫軒のディスプレイ
2022年12月に神田神保町「文房堂」さんで撮った山猫軒ディスプレイ。「けっしてご遠慮はありません」

宮沢賢治『注文の多い料理店』あらすじ

フォークとナイフ

二人の若い紳士が、案内人の猟師と犬を二匹つれて、山奥に狩りにやってきました。
けれど、一向に獲物が見つかりません。
「この山はけしからんね。早く撃ちたいなぁ」
そのうち、猟師の姿が消え、犬が二匹とも死んでしまいました。
紳士は犬の損害額に落ち込みます。

迷ってお腹がすいた紳士たちの元に「西洋料理店 山猫軒」と書かれた立派な家が現れました。扉を見ると「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」と書かれています。
ただでごちそうしてくれると考えた紳士は、喜んで中に入ります。

そこは廊下と扉が続く不思議な作りでした。
それぞれの扉には「鉄砲を置いてください」「クリームを塗ってください」などいろいろな指示が書いてあります。紳士は自分たちに都合のいいように考え、指示に従い進みます。

ところが進んだ先の扉で、紳士はここが「西洋料理を食べることができる山猫軒」ではなく「西洋料理にされて山猫に食べられてしまう店」だということに気が付きます。

紳士がくしゃくしゃになりながら泣いていると、死んだはずの犬が飛び込んできました。幻影が消え、紳士たちは助かりました。
けれど一旦紙くずのようになった顔は、元には戻りませんでした。

ここからは、実際の小説の本文と照らし合わせをしつつ、個人的な考察をしています。
細かいネタバレになりますのでご注意ください。

『注文の多い料理店』まとめ考察

このブログでは宮沢賢治の『注文の多い料理店』を

  • 言葉の技法(オノマトペ・ダブルミーニング)
  • 登場人物の設定
  • 作品の構成(どこからが山猫のつくった幻影なのか)

などから考察していきます。

そして、

『注文の多い料理店』は相手の命を大事に思わず、遊びの狩りや必要以上の食に耽る紳士と山猫が、山の神から罰を受ける物語で、他者の命の大切さを考えることがテーマ・教訓

と、まとめています。

ここから詳しく解説していきます。

初読 紳士2人の立場で読む・言葉のおもしろさを感じる

ストーリーのまえに、この作品が持つ言葉に関連する用語2つについて解説しておきます。
オノマトペ」と「ダブルミーニング」です。

オノマトペで膨らむ感覚とリズム

さまざまなオノマトペ


オノマトペとは「擬音語・擬態語」の総称で、音や物の状態をまねて作られた言葉です。
宮沢賢治の作品はオノマトペが多く使われていることでも有名です。

風がどうといてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。

作品内の1行の引用ですが、ここでは

どうと・ざわざわ・かさかさ・ごとんごとん

がオノマトペです。

木を「ごとんごとん」って表現するの、めずらしい。
そんな言葉ってあり?

オノマトペは感覚から作られる言葉です。
人による個性が出やすく、変わったオノマトペは独特の世界観を作りだします。

パイナップルを食べると口の中が「しかしか」する…

→ 自分の感覚が表現できていると思えば、オノマトペは自由

オノマトペは感覚を直接表現しているので、イメージの捕捉になります。
また、重なり言葉が多いので、文章にリズムがでます。

ただ、ここの「ごとんごとん」には、この言葉にした意味があると思います。(それについては後で)

▲宮沢賢治のオノマトペを集めたこんな本も出ています

ダブルミーニング

ダブルミーニング「注文の多い料理店」の2つの意味

扉の最後の地点で2人の紳士は、自分達が扉に掛かれた言葉を勘違いして捉えていたことに気が付きました。
1つの言葉が2つの意味にとれる文章を「ダブルミーニング」と言います。

「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」

扉のこの言葉を読んで、二人の紳士は最初「この店はなかなか流行ってるんだ」と思います。
「注文が多い」を「食事に来る客が多い」という意味でとったため、「人気のある店」だと解釈しました。

しかし最後にこの言葉が「向うがこっちへ注文してくる」という意味だったと気が付きます。
「注文」の意味は、「こうして欲しいといいつけること」でした。
紳士2人は、自分達が食べられるための下ごしらえを注文されていたと知ります。
自分が上と思っていたのが、ペロリと食べられる立場に急に変わりました。紳士2人はがたがた震えます。

その時紙くずのようになった顔は元には戻りませんでした…

『注文の多い料理店』を紳士の立場で読んだ時の怖さは、

・ダブルミーニングなのに勝手さから自分の都合のいいようにだけ解釈し、自ら危険に近づいて行ったこと
・ダブルミーニングによって意味が逆転すると同時に、自分の立場が「食べる側」から「食べられる側」に一気に変化すること

にあります。

2度読み 山猫の立場から内容を読み返す 

本を読む

ダブルミーニングは言葉の遊びだけじゃなく、「自然ともう一度読み返してみたくなる」という効果をもたらします

紳士の側から1回読んでダブルミーニングに気が付くと、

「いままでの扉の注文の別の意味は何だったんだろう」

と、それまでの部分を確認したくなりませんか?

読み直しは裏の意味を知りたくなるので、今度は紳士ではなく山猫の立場で読むことになります。

このお話はダブルミーニングを使うことで、読み返し、自然と紳士と山猫の両方の立場にたてる仕組みになっています。

続けて山猫の立場からも読む!

山猫の気持ちでの読み返し

山猫軒内部

山猫の気持ちで読み返してみます。

13個の注文・扉のダブルミーニングの解説

山猫の用意した「注文」は扉の表裏合わせて13個ありました。

  1. どなたもどうかお入りください。決してご遠慮えんりょはありません
  2. ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎だいかんげいいたします
  3. 当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください
  4. 注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。
  5. お客さまがた、ここでかみをきちんとして、それからはきもののどろを落してください。
  6. 鉄砲と弾丸たまをここへ置いてください。
  7. どうか帽子ぼうし外套がいとうと靴をおとり下さい。
  8. ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡めがね財布さいふ、その他金物類、ことにとがったものは、みんなここに置いてください
  9. 壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。
  10. クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、
  11. 料理はもうすぐできます。十五分とお待たせはいたしません。すぐたべられます。早くあなたの頭にびんの中の香水をよくりかけてください。
  12. いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。
  13. いや、わざわざご苦労です。大へん結構にできました。さあさあおなかにおはいりください。

①の「決してご遠慮はありません」は、山猫からすると「こちらは遠慮せずにどんどん注文を言うよ!」の意味で、「たくさん指図しますよ」ということになります。

これを「ただでごちそうするから遠慮しないでね」ととるのは、紳士たち都合よくとりすぎですよね…

⑪「すぐたべられます」は、「られる」が「可能」としての「食べることができる」という意味と、「受け身」としての「他から食べることをされてしまう」の、2つの意味を持っています。

⑬の「おなかにおはいり」は「部屋の中に入ってきて」という意味と、「僕のお腹に入って」の2つの意味です。

じゅるじゅる

他の指示部分も、紳士は自分たちの都合よく受け取ります。

山猫も狩りで楽しんでいる

ところでこの13個の注文を見ていると、気が付くことがあります。

13個の注文のうち、純粋に相手を捕まえるために必要なのは、①~⓼までです。
紳士二人は①~⓼で武器になるものをすっかり奪われ、無力化されています。
なので山猫が単純に早く食べたいだけなら、注文は⓼までで十分なはずです。

実際に⑫で、山猫の考えは紳士2人にバレましたが、手下はそこまで慌てませんでした。
武器を持たない彼らと戦って負けないからです。

つまり⑨からは、純粋に相手を仕留める事が目的ではありません
「注文」で、彼ら自身に下ごしらえまでやらせてしまうという、相手を動かして反応を楽しんでいるような遊びの要素があります。

余裕でいたら人間じゃなくていきなりでてきた犬にやられたけど

このお話は、紳士がひどい目に合うのと同時に、山猫も犬に襲われています。
メインの登場人物が両方ともひどい目にあいます。

・山猫も狩りで反応を楽しんでいる
・紳士は顔がくしゃくしゃのまま治らず、山猫たちは犬に襲われるという、メインの登場人物が両方ともひどい目にあうお話になっている。

紳士と山猫に共通する行動・その根底にあるものは?

紳士も山猫も最後にひどい目にあう点が同じだけでなく、描かれ方に共通点があります。

紳士と山猫の共通点1 必要以上の食 美食や飽食

美食や飽食

「ことにふとったお方や若いお方は、大歓迎だいかんげいいたします」
 二人は大歓迎というので、もう大よろこびです。
「君、ぼくらは大歓迎にあたっているのだ。」
「ぼくらは両方兼ねてるから」

紳士2人は太っています。そして物語の最初では「何か食べたい食べたい」と言いながら歩き、ただで食事が出来ると都合のいいことを考え、クリームが出てきたときにはこっそり食べています。
食い意地がはった飽食家です

山猫は料理の下ごしらえに細かいこだわりを見せます。美食家と言えます。

食のそもそもの目的は「自分の生命を維持すること」です。
紳士と山猫はタイプは違いますが、どちらも「必要以上の食」を摂っています。

紳士も山猫の共通点2 遊びの狩り

狩りで誇る人

紳士と山猫は「狩り」の様子でも共通点があります。
それは食料を得るだけの狩りではなく、遊びの要素がある点です。

紳士は最初にこう言っています。

「ぜんたい、ここらの山はしからんね。鳥もけものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」
鹿しかの黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞みまいもうしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっとたおれるだろうねえ。」


紳士の狩りの目的は自分の楽しみのためです。

山猫は、紳士を食べるために幻想の家に誘い込みました。これ自体かなり凝った趣向です。
そして紳士を注文によって無力化したあとでも、すぐに仕留めたりはしません。
下ごしらえを紳士自身にやらせ、じわじわとした狩りを続けています。
たぶん狩りを眺めるのが好きなのだと思います。

だまされるの見てるの楽しい…

賢治の猫ぎらい

猫

ちなみに宮沢賢治は猫ぎらいと言われています。
宮沢賢治の小品にそのままのタイトル『』があります。

(私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。)

(どう考へても私は猫は厭ですよ。)

この言葉だけでなく、宮沢賢治の作品では実際、猫はあまり良い性格をしていません。

『どんぐりと山猫』では、山の権力者ですが名誉にこだわる山猫が登場しますし、『セロ弾きのゴーシュ』ではしたり顔にゴーシュの個性に合わない演奏を求める猫が登場します。

そんな賢治の猫嫌いの理由の1つが、この『注文の多い料理店』で見えると思っています

それは

現実の猫は実際、遊びの狩りをしている

という事実です。

外を歩く猫を眺める人なら知っていると思いますが、猫は食べるだけでなく、狩りで遊びます。
バッタなどを捕まえると、押さえつけ、わざと離し、また捕まえます。それを繰り返します。

人間の身近でそういう狩りをする動物を、私は猫以外に知りません。
そんな猫の特性が、賢治が猫を嫌いと言う大きな理由の一つだと思います。

紳士と山猫の根底にあるもの 「相手の命を軽く考える」

寂しげなハート

「必要以上の食」と「遊びの狩り」の根底にある考え、それは「相手の命を軽く扱っている」ということです。

紳士は撃たれた動物の様子を想像して楽しみます。
この2人は動物の命を自分たちを楽しませるものとしか思っていません。

また、連れていた犬が亡くなった時にはこう言います。

「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬のぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。

命が消えたことを、自分のお金の損害としかみません。

では山猫はどうでしょう。
紳士たちがカラクリに気が付いたあとで、山猫の子分2匹はこのようにいっています。

へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはおきらいですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。

山猫は、紳士2人が泣いているのをなだめようとしますが、そこで思いついたのは、

「サラダになるのがいい?それともフライのほうがいい?」

という選択肢です。

たぶんこれを言われた紳士としては、

どっちの料理になりたいなんて言っているんじゃない!
人の命をなんだと思ってるんだ!

アイコンの帽子を脱がせるのを忘れた…

…と元気な時なら言いたくなると思います。

自分たちだって相手の命をないがしろにしてきたのにね…

紳士にとって狩りの相手の命が軽かったように、山猫にとっても2人は食料でしかありません。
紳士も山猫も相手の命を軽く思っているという点で一致しています。

・紳士も山猫も遊びの狩りをしたり必要以上の食をとっている。
それは「相手の命を軽く見る」からこその行動で、紳士と山猫は一致している。

猟師が存在する理由

ここまで、紳士2人と山猫が、「必要以上の食」に耽り、「遊びの狩りをする」人物として描かれていることを見てきました。
その行動の根底にあるのは、命をないがしろにする気持ちです。
彼らは両方とも最後に罰を受けます。

そしてこの作品では彼らと比べられる人物として、「必要以上の食」を取らず「遊びで狩り」をしない人物もでてきます。
最初に道案内をし、消えてしまい、事件が終わった後に現れる「猟師」です。

昔の猟師

それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。

簔帽子みのぼうしをかぶった専門の猟師りょうしが、草をざわざわ分けてやってきました。
そこで二人はやっと安心しました。
そして猟師のもってきた団子だんごをたべ、途中とちゅうで十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。

この猟師が持っている団子に注目した論文があります。

青山英正「宮沢賢治『注文の多い料理店』論 猟師・犬・団子への着目」(2011年) 明星大学研究紀要. 人文学部・日本文化学科 (19)

青山氏はこの論文で、「猟師」は素人同然の「紳士」と違って「猟の専門家」であり、猟師の持つ「団子」は「紳士」や「山猫」の求める「西洋料理」とは対照的な食べ物と言っています。

団子は、

  • 何かを殺して作られたものではない
  • 農民の日常食。商品ではない。
  • 寒さに震えていた紳士にとって、本当に必要とされた食

であり、このことから

本作品における「団子」は、「西洋料理」と対照的に、〈殺生〉をすることなく生命維持の観点から必要なものを必要な量だけ摂るという、本来あるべき〈食〉の象徴と見ることができよう。

青山英正「宮沢賢治『注文の多い料理店』論 猟師・犬・団子への着目」(2011年 明星大学研究紀要. 人文学部・日本文化学科 (19))

と述べています。

紳士2人山猫猟師
食べもの必要以上の食(量)必要以上の食(質)生命維持に必要な食
狩り遊びとして楽しむ遊びも楽しむ仕事
結果罰を受ける罰を受ける罰を受けない

この論で私が特に取り入れたいのは、猟師に注目したということと、猟師の団子の役割を説明した点です。

「紳士&山猫」と「猟師」は皆、狩りをする人です。けれどそこに遊びの要素があるかないかで内容に違いがあります。
「紳士&山猫」は必要以上の食を求めます。「猟師」は生命維持に必要だけの食の象徴である「団子」を持っています。

比べることで、罰せられるのは「狩り」や「食」自体ではないことがはっきりします。
罰の対象は「相手の命をないがしろにしながら」の「狩り」や「食」であって、つまり「楽しみとしての狩り」や必要以上に「飽食に走ること」といえます。

猟師が存在することで、ただの「狩り」や「食」が罰せられるのではなく、「楽しみとしての狩り」「必要以上の食」が罰の対象だとはっきりする

推測 生き返った犬の謎

白い大きな犬

ここで、最大の謎について考えます。

「注文の多い料理店」で、一番の難関がこちらです。

死んだはずの犬が最後で生き返って助けに来る

Yahoo!知恵袋にもこのような質問があります。

『注文の多い料理店』の謎。冒頭で死んだはずの犬たちが最後に飼い主を助けてくれるのは良いのですが、なぜ生き返ったのでしょうか?

この答えを自分なりに探ってみます。

可能性は2種…(推理小説風)

  1. 犬は実際には死んでいないのに、紳士2人が幻想を見た(見せられた)
  2. 犬は一度死んで、その後本当に生き返った

「1.犬は実際には死んでいない」について

まず前提として、作品中では

それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらくうなって、それからあわいて死んでしまいました。

と、犬が死んだとはっきり書かれています。2人はその後、医者のように丁寧にまぶたをひっくり返して死亡確認までしています。
犬は実際に死んだ可能性が高いです。

それを押さえた上でなお、犬が死んでいなかったというためには、この部分すべてが幻想だと確認する必要があります。

山猫の作り出した幻想説

幻想と言えば、この作品の山猫は「山猫軒」を幻想で作り出すほどの達人です。
山猫が幻想を作り出した説はありえそうです。
けれど、この犬が死ぬ場面は、山猫の幻想という描き方をされていません。

「山猫軒」が登場する前、消えた後には共通の表現がでてきます。

木に風が強く吹いている

風がどうといてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」

▲山猫軒が登場する直前

見ると、上着やくつ財布さいふやネクタイピンは、あっちのえだにぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうといてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。

▲山猫軒が消えた直後

ここで独特のオノマトペ、「木はごとんごとんと鳴りました」が生きてきます。

▲この太鼓の音じゃなくて、舞台を下で回し、ごろごろ音をたてて装置が回転するイメージ


一風変わった「ごとんごとん」のオノマトペは、舞台のセットが変わることを想起させます。
歌舞伎から始まり通常の演劇でも使われた「廻り舞台」のイメージです。
舞台が回転する音と共に、山猫軒は登場します。

犬の死と復活が、舞台転換を示すオノマトペと関係があるか。

このオノマトペに挟まれた部分が、山猫の作り出した幻想と考えることができます。

ところが、犬が死んだ場面はこのオノマトペに挟まれた部分ではありません。その前の現実部分です。
つまりこの作品では、

犬が死んだのは山猫が見せた幻想ではない

という描き方がされています。
また、紳士の顔が紙くずのようになって戻らなかったことでも、

これはただの幻想ではない。現実にからんでいる

という印象を持たせています。

紳士の幻想説

頭を抱える人間

山猫が幻想を見せたのでないなら、紳士が無関係にこの幻想を自分で作り出したと考えるのはどうでしょう。
紳士は森に迷って不安な状態です。頭の中に怖い考えが生まれます。

するとこの部分は夢オチということになります。

ただ、これも紳士が「2人」ということを考えるとおかしいです。
2人で同時にまったく同じ幻想を見たんでしょうか。いっしょにおかしくなって犬の死と山猫軒を見て同時に脱ぎだしたんでしょうか。

紳士が1人ならあり得ますが、2人となると紳士が作り出した幻想説はあり得ないと思います。

犬が死んだのは幻想、という描き方はされていない。

「2.犬が一度死んで生き返った」について

次に「犬が一度死んで生き返った」可能性について考えます。
この考えは、死亡確認までした文脈的には正しいです。
けれど、一旦死んで生き返ることが通常ありえないのが一番の問題です。

登場人物の中に犬を復活させる力がある人はいない

いままでに登場した人物は「紳士2人」「山猫」「猟師」。
人間である「紳士2人」「猟師」に、当然、犬を生き返らせるような力はありません。

残った「山猫」ですが、山猫は最後犬に襲われて術を解いています。
幻想を見せる以外に仮にそんな力があったとしても、この場面で犬を復活させるメリットはありません。

それに、紳士2人と同レベルのヤツとして書かれた山猫は、たぶんそこまでの力はないんじゃないかな

最初に起こった事件 「ぜんたい、ここらの山はしからん」

銃を持った若い男性が馬鹿にしながら話している

メインの登場人物で、犬を生き返らせることのできる人はいないことを確認した上で、もう一度、紳士2人の最初の会話を振り返ります。

ぜんたい、ここらの山はしからんね。鳥もけものも一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」

よく見ると、命を軽く見る発言の前に、紳士2人はべつの問題発言をしています。
それは「ここらの山はしからん」
これは「山への冒涜発言」です。

この言葉の後に、

  • 山に詳しいはずの猟師が迷っていなくなる
  • 犬がめまいをおこして死ぬ

という奇妙な出来事が続きます。

その理由は

  • ここがかなりの山奥であること
  • 「あんまり山が物凄ものすごい」こと

と書かれています。猟師が迷ったことも、犬が死んだことも、作中で挙げられた理由は2つとも「山」です。

紳士と山猫を罰するため、山の神が犬を殺し、山の神が復活させた

神々しい山

「ごとんごとん」の場面転換の前であることも考えると、ここの「山」は山猫とは関係ありません。
この事件を起こしたのは「山の神」ともいえる山そのものです。

山の神は紳士の冒涜発言を聞いた後、命をないがしろにする紳士二人と違って問題が無い猟師を、今後の出来事から守るように引き離します。
そして犬を一旦殺しました。これらの事件は山が理由であると書かれています。

ダブルミーニング「山が物凄い」の2つの意味

犬が死んだ理由「あんまり山が物凄ものすごい」は、作中で山猫が使ったのと同じ、ダブルミーニングになっています。
「物凄い」は、これが子供向けの童話なので、むずかしいことを言わずに一見適当に理由をつけたように見えます。
けれど「物凄い」という言葉には、いくつか意味があります。

犬が死んでしまうという結果を考えると、ここの「物凄い」にはまず「物凄い目つき」と使うように「ぞっとするほど恐ろしい」という意味が考えられます。
けれど「物凄い」には「物凄い人」という場合のように、恐ろしいを越えて「程度が理解の上にある」という感嘆・賞賛の意味もあります。

→物凄い、は………

  1. ぞっとするほど恐ろしい
  2. 程度が理解を越えている

ここの「あんまり山が物凄い」は「恐ろしい」を表の理由としてみせつつ、「人間の理解を超えた山の神の力が働いた」と言う意味をもたせているんではないでしょうか。

山の神はまず命をないがしろにする同士の紳士と山猫を、直接対決になる状態にさせたのだと思います。そしてギリギリのところで犬を生き返らせ、2者に死にはいたらないほどの罰を与えました。山の神は命をたいせつにする考えを持つため、罰を与えても命をとるまではしません。山猫は犬に襲われ、紳士は命は助かったものの顔が紙くずのようになります。

いままで山猫と紳士を比べることで、「山猫と紳士は同じように罰を受けた」ことを確認してきました。
けれど、「誰がその罰を与えたのか」については考えてきませんでした。

ここで、「罰を与えたもの」の答えが

山の神ともいえる存在

ということがわかります。

・猟師が迷ったのも、犬が死んだのも描かれている理由は「山」→ 山の神の力
・山は犬を生き返らせ、命をないがしろにするものに罰を与える

作品から考える『注文の多い料理店』のテーマ・教訓

ここまで考えると、『注文の多い料理店』は

相手の命を大事に思わず、遊びの狩りや必要以上の食に耽る紳士と山猫が、山の神から罰を受ける物語

であり、

他者の命の大切さを考えること

がテーマ・教訓となる物語だと言えます。

解釈の参考 広告文・当時の状況の解説

ここから、「注文の多い料理店」を読む際に参考になる、宮沢賢治の言葉や当時の状況などについてご紹介・解説します。

宮沢賢治の書いた「注文の多い料理店」の広告文

「注文の多い料理店」初版に含まれる作品名

「注文の多い料理店」は作品名ですが、賢治の童話作品集のタイトルにもなっています。
この作品集については、宮沢賢治自身が広告文として解説を書いています。

注文の多い料理店

二人の青年ママ士が猟に出て路を迷ひ「注文の多い料理店」に入りその途方もない経営者から却つて注文されてゐたはなし。糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です。

宮沢賢治

〇「神」は「紳」の誤植 〇放恣(ほうし)…わがままでしまりのないこと

この文章の1行目はダブルミーニングによる逆転についての説明です。
2行目はすこしわかりづらいです。
でも「村のこどもら」が「糧に乏しい」からどうしようもない反感を「都会の文明と放恣な階級」に持つという意味なので、反感の内容は「糧に乏しい」の反対=「必要以上の飽食・美食」、ということでしょう。

賢治の言葉からも、「注文の多い料理店」は、必要以上の食についての反感が描かれている作品だとわかります。

当時の都会と村の食の状況

そんな地方と都会の食の違いを知るために、「日本の食文化史年表」(2011年・吉川弘文堂)を調べてみました。
「注文の多い料理店」が描かれた1921年(大正10年)に近い1922年(大正11年)には次のような項目があります。

  • 1922年(大正11年)11月 実業家や知識人の中の食通たちの集まり美食倶楽部流行
  • 不二家がショートケーキ発売
  • この頃、ライスカレー・コロッケ・トンカツが大正の三大洋食になる

明治初期に西洋料理は日本に入ってきましたが、それを味わえるのは特権階級だけでした。
それが明治後期~大正時代に、日本の料理と混じり合った「洋食」としていろいろな階層の人に受け入れられるようになってきています。食の楽しみがいろいろと広がっています。

ちなみに谷崎潤一郎もこの少し前に「美食倶楽部」という作品を発表しています

けれど、そんな豊かな食は東京がメイン。

地方に目をやると、この頃の岩手には貧しい人も多かったです。
「注文の多い料理店」よりは少し後ですが、賢治は1922年から4年半ほど教職にたっています。
その当時の教え子の記述が残っていますが、岩手山の登山にいくためのほんのわずかなお金が出せなかったりとか、お米だけのご飯を食べる余裕がなく大根をたくさん混ぜたご飯を食べていたりとか(こういう人は多かったようです)、食を楽しむなんて考えられない人がたくさんいました。

賢治自身は非常に裕福な家の出で、東京にも何度も行っているのですが、自分が肌で感じる都会と地方の食の差については考えさせられることが多かったはずです。

まとめと感想

食の楽しみが広がって来た当時の東京と、貧しさが残る地方の食の差。
その差が広がる中で、「注文の多い料理店」は描かれた作品です。

この作品では、「必要なだけの食や狩り」を行っている「猟師」は罰を受けず、それぞれ「飽食・美食」にこだわり「遊びの狩り」を行う「紳士2人・山猫」が山の神から罰を受けています。
食や狩りは必要なものですが、必要以上の食や狩りは、命をないがしろにする行為です。
「注文の多い料理店」はそんな行為に対しての、宮沢賢治の憤りが表現された作品です。

重めのテーマだけど、言葉遊びを使いながらおもしろく童話にしています

山猫が扉に書いた言葉はダブルミーニングでした。
山猫のダブルミーニングは、作品のわかりやすいところにある、表のダブルミーニングです。

それに対して「あんまり山が物凄い」は作品の裏に隠されているダブルミーニングだと思いました。
ダブルミーニングがキーになっているこの作品で、誰もが突っ込みたくなる犬の謎に対して、賢治がダブルミーニングを用いてひそかに置いた答えです。

紳士2人が扉を進み山猫の存在に気が付いたように、読者がこのダブルミーニングに気が付くと、行き過ぎた行動に罰を与える山の神が存在することに気が付く、そんな仕掛けになっている作品だと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました!

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